第一幕:会議の始まり
僕、佐藤拓也の頭の中には、三人の同居人がいる。
一人は、目をキラキラさせた楽観主義者、「イケイケの功(いさお)」。彼はいつも僕の肩に乗り、バラ色の未来を囁く。「大丈夫、まだ上がるって!目指せテンバガー(10倍株)!」が口癖だ。
もう一人は、常に青ざめた顔で胃を押さえている悲観論者、「ガクブルの守(まもる)」。彼は僕の足元にうずくまり、最悪のシナリオを警告する。「今すぐ売るんだ!明日には紙くずになるぞ!」と、いつもガタガタ震えている。
そして最後の一人が、分厚い眼鏡をかけた現実主義者、「ソロバンの理(おさむ)」。彼は僕の頭の周りを浮遊し、淡々と数字を読み上げる。「本日までの上昇率は2.3%。昨日比で喜びの増加効率は低下しています」などと、体温の感じられない分析を繰り返す。
事件は、僕が遊びで買ったITベンチャーの株が、数ヶ月で5倍になったことから始まった。含み益は、僕の年収に迫る勢いだ。その日から、僕の頭の中では、この三人が24時間体制で緊急会議を開くようになった。
第二幕:精神的な圧力鍋
「いいかい、拓也くん」功が僕の耳元で熱弁をふるう。「この波に乗らない手はない!今売るのは、金の卵を産むガチョウを締めるようなものだぞ!」
「馬鹿を言え!」守が僕のズボンの裾を掴んで叫ぶ。「その卵が、いつ爆弾に変わるか分かったもんじゃない!君は、この築き上げた財産を一瞬で失う恐怖が分からないのか!」
そう、守の言う「財産」というのが厄介だった。最初は「儲け」だったはずの金額が、いつの間にか僕の中で「失ってはいけない僕のお金」という認識にすり替わっていたのだ。守は、利益を守るためではなく、もはや「損失」を避けるために売れと叫んでいる。
そこへ、理が冷ややかに割って入る。「統計的に、最初の10万円の利益で得られた幸福度を100とすると、現在の追加10万円の利益で得られる幸福度は12程度まで逓減しています。費用対効果が悪いですね」
功は「夢がないな、君は!」と怒り、守は「ほら見ろ、もう面白くないんだ!危険なだけだ!」と泣き叫ぶ。理は無表情にデータを更新し続ける。
食事をしていても、風呂に入っていても、彼らの会議は終わらない。功が描く未来の高級車に胸を躍らせたかと思えば、次の瞬間には守が見せる暴落チャートに心臓を鷲掴みにされる。そして、理が「どちらの感情も非合理的です」と告げて、僕を混乱のどん底に突き落とす。
喜びは薄れ、恐怖だけが増幅されていく。しかし、功の囁く「もっと」という甘い誘惑も断ち切れない。僕は、この耐え難い精神的緊張から逃れるためだけに、全てを投げ出すように「売り」のボタンを押してしまおうかと、何度も考えた。
第三幕:第四の人物
その夜、株価がわずかに下落した。守は「この世の終わりだ!」と絶叫し、功は「押し目買いのチャンスだ!」と興奮している。理は「想定内の調整です」と冷静だ。僕はもう限界だった。
「うるさい!」
僕は思わず叫んでいた。頭の中の三人が、一斉に僕を見る。
「もう、君たちの会議はうんざりだ!僕が、僕自身の意思で決める!」
僕は深呼吸し、パソコンに向かった。そして、三人の顔を順番に思い浮かべた。功の「強欲」、守の「恐怖」、理の「冷めた計算」。彼らは僕を苦しめているようで、実はそれぞれが僕の一部分だった。誰か一人の意見だけを聞いてもダメだ。必要なのは、彼らをまとめ上げる議長。僕という名の、「決断する拓也」だ。
僕は、彼ら全員を納得させるための「和解案」を練り始めた。
まず、守に向かって言った。「分かったよ、守。君の言う通り、今の利益の一部は確定しよう。これで少しは安心できるだろ?」僕は、全体の3分の1を売却する注文を入れた。守は、ほっとしたように涙を拭った。
次に、功に微笑みかけた。「功、君の夢も諦めない。残りの3分の1は、君の言う通り、夢を見てみようじゃないか。ただし、ここまで下がったら自動的に売る、という約束(逆指値注文)はさせてくれ」功は、まだチャンスが残っていることに満足げに頷いた。
最後に、理に視線を送った。「そして理。残りの3分の1は、君の分析通り、明確な目標株価を設定する。そこに到達したら、機械的に売却する。感情は挟まない」理は、初めて眼鏡の奥の目を少しだけ細め、静かに頷いた。
最終幕:静寂の訪れ
全ての注文を入れ終えた時、僕は信じられないような解放感に包まれていた。頭の中が、久しぶりに静かだった。
功と守と理は、互いに顔を見合わせ、そして静かに消えていった。彼らがいなくなったわけではない。議長である僕が、彼らの意見を調整し、一つの結論を出したことで、騒がしい会議は終わりを告げたのだ。
翌日、株価がどう動いたか、僕はもう以前ほど気にしていなかった。どちらに転んでも、僕にはもう決断済みのプランがある。
その日の夜、僕はぐっすりと眠った。夢も見なかった。資産の増減に一喜一憂するのではなく、自分自身の心の主人になれたこと。それこそが、この騒がしい数ヶ月で僕が得た、最大の「利益」だったのかもしれない。