プロローグ:緑色の怪物
深夜2時。部屋の闇に、モニターの緑色の光だけが不気味に浮かび上がっていた。僕、斎藤健一は、その光に照らされながら、息を殺して画面を見つめていた。そこには、僕の人生を変えるかもしれない数字が、心臓の鼓動のように明滅している。
「800,000円」
数ヶ月前、ほんの出来心で買った10万円の無名株。それが今、8倍になって僕の目の前で輝いている。いや、輝いている、という表現は正しくない。それはまるで、僕を飲み込もうとする緑色の怪物の目のようだった。
最初の高揚感は、もうどこにもなかった。株価が2倍の20万円になったあの日、僕は部屋で一人ガッツポーズをした。まるで世界の秘密を発見した天才になった気分だった。40万円になった時も、まだ笑うことができた。だが、80万円。この数字に至って、僕の心を支配していたのは、喜びではなく、得体の知れない重圧と、麻痺したような感覚だった。
「もう、売ってしまおうか…」
指がマウスの上で震える。なぜだ? 勝っているじゃないか。大勝利のはずだ。なのに、なぜこんなにも苦しいんだ? この感情は、一体どこから来るんだ? まるで、自分の中に、自分ではない誰かがいるような感覚。その「誰か」が、僕の耳元で囁き続けていた。「逃げろ」と。僕は、この緑色の怪物と、僕の内なる声の正体を突き止めなければならないと、強く思った。それが、僕が本当の意味で「勝者」になるための、唯一の道であるように思えた。
第1章:囁きの正体
その夜から、僕は狂ったように本を読み漁った。経済学、心理学、脳科学。答えはどこかにあるはずだった。そして、ある古い心理学の法則にたどり着いた時、僕は最初の光を見た。
「ウェーバー・フェヒナーの法則」
それは、19世紀のドイツの科学者が見つけた、人間の感覚に関する法則だった。難解な数式が並んでいたが、その本質は驚くほどシンプルだった。「人間の感覚は、絶対的な量ではなく、変化の割合で物事を捉える」。
僕は、ふと日常の風景を思い浮かべた。
- 静まり返った図書館で、誰かが咳払いをするだけで心臓が跳ね上がるのに、喧騒に満ちた駅では怒鳴り声さえ気にならない。
- 1杯200円のコーヒーが10円引きなら迷わず買うのに、5万円のコートの10円引きには何の感情も動かない。
- 腹ペコの時に食べた最初のハンバーガーは天国の味だが、4個目にもなると、もはや味など感じない。
そうだ、僕の脳も同じだったんだ。10万円が20万円になった時、資産は100%増えた。脳は強烈な「変化」を検知し、快感という報酬を与えた。しかし、40万円が50万円になっても、増加率はわずか25%。80万円を前にした今、1万円の値動きなど、資産全体の1.25%でしかない。僕の脳にとって、それはもはや「誤差」に過ぎなかった。喜びが薄れていくのは当然だったのだ。
これは欠陥じゃない。むしろ、生き残るための優れた機能なのだと本は語っていた。ピンの落ちる音からジェットエンジンの轟音までを聞き分ける聴覚も、広大な世界の情報を脳が処理できる範囲に「圧縮」しているからこそ可能になる。僕の脳は、金融市場で儲けるために設計されたのではなく、サバンナで生き残るために最適化されてきた。その古代からのOSが、現代の市場で奇妙なバグを引き起こしていたのだ。
第2章:もう一人の自分
感覚の謎は解けた。だが、あの胸を締め付けるような「不安」の正体はまだわからない。僕はさらにページをめくり、ついにその名前に出会った。「プロスペクト理論」。ノーベル経済学賞を受賞したこの理論は、僕の中に潜む「もう一人の自分」の正体を、冷徹に暴き出した。
理論には、3つの柱があった。
第一に、「参照点」。人は物事を絶対的な価値で判断しない。常に、ある基準点からの「利益」か「損失」かで判断するという。僕にとっての最初の参照点は、購入価格の「10万円」だった。そこからの利益は、純粋な喜びだった。
第二に、「感応度逓減性」。これはウェーバー・フェヒナーの法則の金融版だ。参照点から離れるほど、喜びや痛みの感度は鈍っていく。10万円の利益は人生を変える一撃に感じられたが、70万円の利益にさらに10万円が加わっても、それは「その他大勢」の数字にしか見えなかった。
そして、第三の柱が、僕の心臓を鷲掴みにした。「損失回避性」。人は、利益を得る喜びよりも、同額の損失を失う痛みを、2倍以上も強く感じるというのだ。
その瞬間、僕の中で全てがつながった。
株価が上昇するにつれて、僕の心の中の「参照点」が、いつの間にか「10万円」から「現在の資産額である80万円」へと勝手に移動していたのだ。もはや、それは「70万円の含み益」ではなかった。僕の脳は、それを「すでに手に入れた80万円の財産」と認識していた。
そして、その財産を失うかもしれないという恐怖が、「損失回避性」によって2倍、3倍に増幅されていたのだ。喜びは「感応度逓減性」によって色褪せ、代わりに「損失への恐怖」という名の怪物が、僕の心を支配していた。
「もう面白くないから売れ」と囁く声と、「手に入れたものを失うな、だから売れ」と叫ぶ声。二つの全く異なる感情が、同じ「売却」という結論に僕を導こうとしていた。僕を苦しめていた葛藤の正体は、これだったのだ。
第3章:悪魔との契約書
僕はモニターから目を離し、机の引き出しから真新しいノートを取り出した。ペンを握る指が、まだ少し震えている。
僕の脳は、線形的(直線的)な変化には退屈し、指数関数的な変化には中毒症状を起こすようにできている。今の状況は、まさに後者だ。価格が倍々で増えていく刺激は、脳にとって最高の報酬であり、手放すことを困難にさせる 。だからこそ、僕は自分の脳を出し抜くための「ルール」が必要だった。
僕はノートの最初のページに、大きく、はっきりとした文字で書き込んだ。
【目標価格:100万円】
これは単なる数字ではない。僕が僕自身と交わす「契約書」だ。感情という名の悪魔に魂を売り渡さないための、唯一の武器。この価格に達したら、僕は機械的に売る。たとえその翌日に株価が200万円になろうとも、後悔はしない。なぜなら、僕の「勝利」は、利益の最大化ではないからだ。僕の勝利は、「自分で決めたルールを、感情に惑わされずに実行すること」そのものにあるのだから。
この契約書は、僕に新しい「参照点」を与えてくれた。それは市場が押し付ける気まぐれな数字ではなく、僕自身の理性が定めた、確固たるゴールだ。
エピローグ:静寂の夜明け
数日後、その時は訪れた。アラートが鳴り、モニターの数字が7桁に変わる。
「1,000,000円」
僕の心は、驚くほど静かだった。あの夜僕を苛んだ怪物たちの声は、もう聞こえない。僕は契約書に書かれた指示通り、冷静に、正確に、売却注文のボタンをクリックした。
「約定しました」という無機質なメッセージが画面に表示される。全てが終わった。
僕は椅子から立ち上がり、カーテンを開けた。東の空が、わずかに白み始めている。街はまだ深い眠りの中だ。
翌日、僕が売った株は、さらに値を上げていた。だが、僕の心に後悔の波は立たなかった。代わりに、穏やかな満足感が広がっていた。僕は、市場に勝ったのではない。僕自身の、あの古代から受け継がれてきた脳の「仕様」に振り回されることなく、その主人となることができたのだ。
モニターの電源を落とすと、部屋に完全な静寂が戻ってきた。それは、僕がずっと探し求めていた、本当の心の平穏だった。