「寛容になりましょう」――。
この言葉、なんだか耳障りはいいですよね。まるで、みんなで手をつないで歌えば世界が平和になる、みたいなフワッとした優しさを感じます。
でも、ちょっと待ってください。ネットで自分と違う意見を見つけるたびに「論破してやる!」と息巻いているあの人に、この言葉は届くんでしょうか?
そもそも「寛容」って、具体的にどういう態度を指すのでしょう。嫌いな人のトンデモ意見も、ニコニコしながら「いいね!」を押すこと?
実は「寛容」ってやつは、僕らが思っているよりずっと複雑で、一筋縄ではいかない、ちょっとクセのある美徳なんです。
今回はその正体を、心理学と哲学という二つの虫眼鏡で、じっくり覗いてみることにしましょう。
とりあえず「我慢する」のが第一歩? 心理学が教える寛容のリアル
心理学の世界では、「寛容」をもうちょっとドライに定義しています。
それは、「自分とは違う考えや行動をする他人に対して、『うわ、マジか…』と思っても、それを無理やり正そうとしたり、排除しようとしたりする衝動をグッとこらえること」。
そう、スタートは意外と消極的。「殴りかかりたい気持ちを抑える」くらいの、心のブレーキみたいなものなんです。
でも、これってすごく大事なことで、価値観がバラバラな人たちが一緒に暮らす現代社会では、このブレーキがなければそこら中で事故が多発してしまいます。
最近では、この「寛容」を含む、もっとポジティブで力強い概念として「受容力」という言葉が注目されています。これは、ただ我慢するだけじゃない、いわば心の筋力のようなもの。いくつかの要素でできています 。
- 寛容さ/曖昧さ耐性:「まあ、白黒つけなくてもいっか」と、モヤモヤした状態を受け入れる力。
- 視点取得: 相手の意見に賛成できなくても、「なるほど、君のいる場所からは、世界はそう見えるのね」と、相手の靴を履いてみようとする想像力 。
- 思いやり/慈愛:「色々ムカつくけど、まあ同じ人間だしな」と、相手の幸せを願う根源的な気持ち 。
ここで一番のポイントは、寛容とは「相手を好きになること」でも「意見に同意すること」でもない、という点です 。
むしろ、「あなたのことは正直苦手だし、意見も全く賛成できない。でも、あなたがここに存在することは認めますよ」という、ちょっとビターで大人な態度。
これこそが、対立を乗り越えるための、不完全だけど美しい美徳なんです 。
哲学者の警告「寛容すぎると、逆に社会が滅びるぞ!」
さて、この「寛容」というテーマ、昔から哲学者たちも頭を悩ませてきました。
18世紀フランスの哲学者ヴォルテールは、宗教的な思い込みで無実の人が処刑されるという悲惨な事件を目の当たりにして、ブチ切れます。
「狂信はもうやめだ!理性の力で、もっと寛容になろうぜ!」
と、名著『寛容論』を書き上げました。
彼の主張の根っこは、とてもシンプルで普遍的なものでした。
「自分がやられて嫌なことは、人にもするな」――ただそれだけです。
これだけ聞くと、100%正しい、いい話ですよね。でも、この「寛容」には、とんでもないパラドックス、つまり「罠」が潜んでいたのです。
20世紀になって、カール・ポパーという別の哲学者が、この罠について鋭い警告を発しました。それが有名な「寛容のパラドックス」です 。
ポパーはこう言いました。
「いいかい?もし僕らが、何でもかんでも『寛容が大事だから』と言って、不寛容な人たちにまで無制限に寛容でいたら、どうなると思う?
結局、その不寛容な連中が社会を乗っ取り、寛容な人たちは滅ぼされ、寛容そのものがこの世から消えてしまうんだ。
だから僕らは、寛容の名において、不寛容に対しては不寛容である権利を主張しなきゃならない!」
これ、衝撃的じゃないですか?
つまり、対話のテーブルにつく気もなく、ただ「俺が正しい!お前は黙れ!」と叫んで議論を破壊しようとする相手に対してまで、「まあまあ、あなたの意見も尊重しますよ」なんて言っていると、そのテーブル自体がひっくり返されてしまう、というわけです。
ドラマ「不適切にもほどがある!」の中で高らかに歌われる「寛容になりましょう」は、もちろん素晴らしい理想です。
でも、このポパーの警告を知ってしまうと、少し無防備すぎる理想論に聞こえてきませんか?
僕たちがネット上で「いや、こいつの意見だけは絶対に受け入れられない!」と感じる時、それは単に心が狭いからではないのかもしれません。それは、対話という寛容な社会のルールを守るための、正当な防御反応である可能性だってあるのです。
問題は個人の心の広さというより、どこまでが「尊重すべき意見の違い」で、どこからが「社会から排除すべき破壊的な不寛容」なのか。その境界線を、僕たち自身が考え、引いていくことなのかもしれません。